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損失回避:プロスペクト理論と営業への応用
10月 5, 2026 ・ 営業サポート
SALES KNOWLEDGE

損失回避とは?プロスペクト理論から考える営業での提案の伝え方

1万円を失う痛みは、1万円を得る喜びよりも大きく感じられる。
行動経済学では、この傾向を「損失回避」と呼びます。
営業の現場では「損をしたくない気持ちに訴えればよい」と語られることもありますが、研究をたどると、この傾向がいつも同じように働くわけではないことも見えてきます。
この記事では、損失回避の研究とその限界を整理し、営業での提案の伝え方を考えます。

損失回避とは:失う痛みは、得る喜びより大きい

損失回避という考え方を示したのは、心理学者のダニエル・カーネマン氏とエイモス・トベルスキー氏です。

2人は1979年に「プロスペクト理論」を発表し、人は物事を、手元にあるものからの「得」と「損」として評価すると論じました。
そして、同じ大きさの得と損を比べると、損のほうが心に重くのしかかる、と指摘したのです。
1992年の論文では、損失は同じ額の利益のおよそ2.25倍の重みを持つという推定値も示されています。

たとえば、勝てば1万円もらえ、負ければ1万円払うコイン投げに誘われたとします。
期待値はゼロですが、多くの人はこの賭けを断ります。
1万円を得る喜びより、1万円を失う痛みのほうを大きく感じるからです。

同じ内容を「得られるもの」と「失うもの」のどちらで表現するかによって、相手の選択が変わる「フレーミング効果」は、損失回避と深く関わっています。
フレーミング効果については、以前の記事(「営業数字の見せ方:ROI・効果測定を説得的に伝える方法」)で扱いました。

手に入れたものは、手放しにくくなる

損失回避は、自分の持ち物の価値の感じ方にも表れます。
それを示したのが、カーネマン氏、ジャック・クネッチ氏、リチャード・セイラー氏が1990年に発表した、マグカップを使った実験です。

この実験では、カナダのサイモン・フレーザー大学の学生77人を3つのグループに分けました。
1つ目の「売り手」のグループには、マグカップを渡し、いくらなら手放してよいかを答えてもらいます。
2つ目の「買い手」のグループには、いくらなら買ってよいかを答えてもらいます。
3つ目の「選ぶ人」のグループには、マグカップと現金のどちらを受け取りたいかを、金額ごとに選んでもらいました。

その結果、売り手が手放してもよいとした金額の中央値は7.12ドルでした。
一方、買い手が払ってもよいとした金額は2.87ドル、選ぶ人がマグカップと同じ価値だと判断した金額は3.12ドルでした。
同じマグカップでも、すでに手にした人は、ほかの人の2倍以上の価値をつけたのです。

ここで注目したいのは、買い手と選ぶ人の金額がほとんど変わらなかったことです。
選ぶ人は、マグカップを持っていないという点で、売り手よりも買い手に近い立場です。
つまり、価値の差を生んでいたのは「買うのを渋る気持ち」ではなく、「一度手にしたものを手放したくない気持ち」だったと考えられます。
この現象は「保有効果」と呼ばれ、損失回避の代表的な表れとされています。

損失回避は、いつでも同じように働くわけではない

ここまで読むと、損失回避は人間の普遍的な性質のように思えます。
しかし近年、この考え方そのものに疑問が投げかけられています。

2018年、デイビッド・ガル氏とデレク・ラッカー氏は、損失回避を支持するとされてきた研究を見直す論文を発表しました。
2人は、損失が利益よりも全体として強く影響するという考え方は、現在の証拠では支持されないと主張しています。
損と得のどちらが重く感じられるかは状況によって変わり、損失回避を一般原則として扱うのは言いすぎだ、という立場です。

これに対して2020年、マークヴァ氏、ジョンソン氏らは、5つの調査、合計1万7,720人分のデータで反論しました。
その結果、知識や経験の多少にかかわらず、どの人にも損失回避は見られたと報告しています。
ただし、その強さは一定ではありませんでした。
その分野の知識や経験が多い人ほど、損失回避は弱くなっていたのです。

特に興味深いのは、車の購入者を調べた結果です。
燃費についてよく知っている人は、燃費についての損失回避が弱くなっていましたが、乗り心地など、ほかの点についての損失回避は弱まっていませんでした。
マークヴァ氏らは、よく知らない点について判断するとき、人はその場で好みを組み立てるため、損失回避が強く出やすいのではないかと考えています。

正直なところ、この議論にはまだ決着がついていません。
ただ、2つの研究を並べると、少なくとも「損失回避は存在するが、その強さは状況や知識によって大きく変わる」と考えておくのが妥当だと思います。

営業での損失回避:「失わせない」設計と、煽らない伝え方

では、この研究を営業にどう活かせばよいのでしょうか。
ここでは、提案の場面を3つに分けて考えます。

乗り換えを提案するとき:手放すものの重さを理解する

マグカップの実験が示したように、人はすでに手にしているものを、外から見るよりも高く評価します。
営業で言えば、顧客が今使っている仕組みや取引先がそれにあたります。

たとえば、顧客が長年使ってきた顧客管理のソフトを、新しいシステムに切り替える提案をするとします。
営業担当者から見れば、古いソフトは機能が少なく、切り替えたほうが明らかに便利です。
しかし顧客にとっては、慣れた操作、蓄積したデータ、社内に定着したやり方を手放すことでもあります。
新しいシステムの利点をどれだけ並べても、手放すものの重さが勝っていれば、顧客の判断は動きません。

このとき必要なのは、利点をさらに強調することではなく、手放すものを減らす工夫です。
データの移行を手伝う、これまでの操作に近い使い方を残す、一部の部署から試してもらう。
「何を得られるか」と同じくらい、「何を失わずに済むか」を示すことが、乗り換えの提案では大切になります。

損失を伝えるとき:事実の範囲で、煽らない

損失回避を知ると、「このままでは損をします」と伝えれば顧客が動く、と考えたくなるかもしれません。
実際、何もしないことで生じている損失を伝えることは、顧客が現状を見直すきっかけになります。

ただし、その損失が事実に基づいていなければ、それは煽りになります。
「今決めないと損をします」と根拠なく急かせば、顧客は一時的に動くかもしれません。
しかし、あとで冷静になったとき、不安をあおられて決めさせられたと感じれば、その不満は営業担当者への不信に変わります。
ガル氏らの研究が示すように、損失への訴えがいつも効くとは限らない以上、そうした伝え方は、効果の面でも信頼の面でも分の悪い賭けです。

損失を伝えるのであれば、その金額や影響を、根拠と一緒に示す。
そして、決めるのはあくまで顧客自身だという姿勢を崩さないことが大切です。

迷っている顧客には、判断の材料を渡す

マークヴァ氏らの研究からは、もう1つ営業に役立つ示唆が読み取れます。
その分野についてよく知っている人ほど、損失回避が弱くなるという点です。

顧客がなかなか決められずにいるとき、その理由は、提案の中身ではなく、判断に必要な知識が足りないことにあるのかもしれません。
よく分からないまま判断しようとすると、人は「失敗したらどうしよう」という損失の面に引きずられやすくなります。
そうした顧客に必要なのは、決断を急がせる言葉ではなく、比較の仕方や、導入後に起きることを具体的に知るための情報です。
判断の材料がそろえば、顧客は損失への不安だけでなく、得られるものも含めて、落ち着いて選べるようになるはずです。

おわりに

損失回避は、人が損を避けようとする自然な傾向を示す考え方です。
ただ、研究が進むにつれて、その強さは状況や知識によって変わることも分かってきました。
営業でこの考え方を活かすとき、大切なのは、顧客の不安をあおることではありません。
顧客が何を失うことを恐れているのかを理解し、その不安を減らす方法を一緒に考えることです。
損を避けたい気持ちに寄り添える営業でありたいと思います。

参考にした情報

  • Daniel Kahneman, Amos Tversky「Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk」Econometrica, Vol.47, No.2, 1979年
  • Amos Tversky, Daniel Kahneman「Advances in Prospect Theory: Cumulative Representation of Uncertainty」Journal of Risk and Uncertainty, Vol.5, 1992年
  • Daniel Kahneman, Jack L. Knetsch, Richard H. Thaler「Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem」Journal of Political Economy, Vol.98, No.6, 1990年 https://web.mit.edu/curhan/www/docs/Articles/15341_Readings/Behavioral_Decision_Theory/Kahneman_et_al_1990_Experimental_tests.pdf
  • David Gal, Derek D. Rucker「The Loss of Loss Aversion: Will It Loom Larger Than Its Gain?」Journal of Consumer Psychology, Vol.28, 2018年 https://doi.org/10.1002/jcpy.1047
  • Kellen Mrkva, Eric J. Johnson, Simon Gächter, Andreas Herrmann「Moderating Loss Aversion: Loss Aversion Has Moderators, But Reports of its Death are Greatly Exaggerated」Journal of Consumer Psychology, Vol.30, 2020年 https://doi.org/10.1002/jcpy.1156
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